ザルに水を汲む   松本善之助

ホツマ・ツタヘを発見してから、すでに四年になる。だが、全体の三分の一をようやく読んだに過ぎない。正に牛歩遅々たりである。しかし、一度知りえた醍醐味は、忘れようにも忘れられなし。何でもそうだが、自分でいいと思へば、人にも知らせ一緒にやらうと勧めたくなるのは人情である。しかし、人を誘はうとすれば、多少の効能書を並べなくては、相手にとって何のことか解らない。ところが、これが難しい。玄米はいいと云ったとて、所詮、食べた者でなくては、その味はわからない。百万遍ゴタクを並べたとて食べない者は食べないのである。ましてや、事は神様に関してである。神武天皇様前後から、さらに古代の事柄を研究しようといふのである。よほど、趣味のある者でなくては、初めから話にはならない。私自身あんまり難しい事は学者に任せて、その料理してくれたものをご馳走になればいいと思ってゐたが、どうもさういふ訳にもいかないらしい。その料理を説明するのは、これまた、ややこしい。しかし、体験者には解るといふ意味では、前記、玄米の例と同じである。

ガリレオは、地球の方が動いてゐると云って、迫害はその遺骸にまで及んだ。今のご時世だから、我々は、まさか、そんなことにはならないだらうが、これが戦前だったら、まさに網走で、一生を棒にふったかもしれない。それほどに、この書物は反体制的である。戦争に負けなかったら、この古典は、まだまだ地中深く潜んでゐて、我々ごときとてもお目にかかることはなかっただらう。
古事記も、日本書紀も、古代の日本を明らかにしようと努めてはゐた。しかし、そのネタ本がまづかったから、、ギクシャクしたものになってしまった。そのネタ本といふのは、神代文字で書かれたホツマ・ツタヘを、聖徳太子ごろ、漢ごころで取捨し、漢字漢文体に翻訳したり、翻案したりしてできたものなのである。虚心坦懐、ホツマ・ツタヘを繙くなら、このことは歴然として疑う余地はない。四年間かけて、この三行のことだけははっきりした。このことにビックリする者なら、ホツマ・ツタヘは関心の的とならうし何も感じない者にとっては、三文の値打もない。我々にとって、このネタ本説は収穫ではあったが、ここで腰を下ろしてしまふ訳にはいかない。これから先こそが本題だからである。ところが、その道は、深くて見当もつかない。公案が通る予測は、まだ掴めないが、できるのは、ザルに水を汲むことだけである。

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